第8節 相続業務はますます増大する

◆H行政書士の場合


 Hさんは、行政書士業務の中でも相続業務の実務家である。
 相続業務というと、遺言書の作成であるとか遺産分割協議書の作成と思われがちだが、実務は、原始資料の蒐集が重要であり具体的な事務に入ることである。何通もの除籍、原戸籍謄本の申請から業務は始まる。
 事務所を訪れる依頼者は、モノノ本に書いてあるようなこと、たとえば「法定相続人」とか「法定相続分」などということはすでに知っている。「遺言書」や「遺産分割協議書」の書き方も知っている。本に書いてあるのであるからそれくらいは読んでやってくる。
 行政書士として相談を受けることはそういうことではない。
 遺産相続をめぐる深刻な骨肉の争いで悩む人がいる。家族の調整機能の低下や住宅地の地価の高騰などが原因のようだ。きちんとした遺産相続ができるように、しっかりした遺言さえ残っていればと悔やまれるケースも多い。
 こんなケースがある。東京・I区内で製本工場を経営していたO氏が交通事故で死亡三七歳の若さだった。O氏には子供はなく残されたのは奥さん一人。残った財産は夫婦で一三年かけて営々と築き上げたものだ。
 ところが、息子の結婚に反対し勘当同然の関係にあったにもかかわらず、地方に住む両親が遺産の相続を主張。民法に従って妻が三分の二、両親が三分の一を相続することになった。このため住宅を兼ねた工場の建物を売却をせざるをえなくなった。それもこれもひとえに遺言がなかったためである。
 生前、財産のすべてを妻に相続させるという遺言状を夫が作っておけば、夫婦で築き上げた財産を手放さずにすんだであろう。
 イギリスでは、「遺言なしに死ぬのは紳士の恥」とまでいう。それに比べてわが国は遺産の配分を法定相続にゆだねる風潮が強く遺言後進国である。
 国民の資産形成も進んでいる昨今、土地や預貯金、有価証券などで一億五千万円位の財産になるならば遺言書を書いておくことである。時代とともに家族関係がむずかしくなっているからということもあるが、遺言を財産の処理や遺族間のゴタゴタを避ける便法だけにするのではない。
 死と向かい合うときに、人はどのような言葉を家族にメッセージとして残すのだろうか、ということでもある(それはすばらしいことにちがいない)。